この原稿は、「トルコについて何か書いてほしい」という三輪舎の主・中岡祐介さんの依頼で書くことになった。
ぼくは、いま中岡さんと一緒に『海峡のまちのハリル』という絵本をつくっている。まさか1本の原稿を10年も推敲することになるとは思わなかったが、文章を書いては、師匠で絵本作家の小林豊さんに見てもらう、ということをずっと繰り返し、物語をつくりあげてきた。この間にフリーライターから出版社の編集者になり、会社から独立して、今は小さな出版社を立ち上げようとしている。結婚して家族ができて、子どもも二人できた。住まいも東京から関西へと移した。10年とは、そのくらいの時間だ。
といっても、10年かけようとしたのではなく、正確にいえば、「説明的なわかりやすさ」を価値とする職業ライターであり、編集者としてやってきたぼくが、「わからないほうがいい」絵本の表現というものを身体化し、作品を書くことができるようになるまで、10年の苦しい修業の歳月を要したにすぎないのだ。最初のころは原稿をよく読み応援してくれていたヨメさんも、百回を超えてファイルの更新が重なるにつれ、いつしか絵本の原稿は見てくれなくなった……。そして、書きはじめたころは影も形もなかった子どもが、すでに絵本を読める年齢となっているのだから、光陰矢の如し。
ともあれ、である。原稿も原画もほぼできあがっていて、この3月に絵本は出版される予定となっている。
「いいプロモーションを考えました!」と、ビデオチャットの画面越しの中岡さんはにこやかに言っていたが、3月に出る予定の本について、刊行までに行う週間連載の話が前月にくる、というのはいささか急な話であろう。
だが、『せかいいちうつくしいぼくの村』(ポプラ社)という絵本作品などが小学校の教科書にも載るキャリアの長い小林さんはともかく、ぼくのことを知らない人は当然多いし、そのうえ、ふつうの人はあまりなじみのない世界について絵本をつくろうとしている以上、書かざるをえないことは理解しているつもりである。
3年ほど前、東京都内のチェーン店のカフェで、日本人にはなじみのうすい「オスマン帝国」という、前近代の、今となっては幻の大帝国を題材にした絵本をつくりたいのだ!と熱弁する僕に、中岡さんは終始にこやかな顔で応対した。よく引き受けてくれたものである。当時、三輪舎は設立4年目にして4冊目となる『本を贈る』をちょうどつくっていたところで、インドのタラブックスの絵本もまだ出していないころだった。
ところで、ぼくが作品制作として、取り組んでいる取材テーマの1つが「世界のはじまり」だ。
今回の絵本は、親日国として知られるトルコと日本の「友好のはじまり」の物語。これまで、日本とトルコの友好のはじまりは、「エルトゥールル号事件」を通じて知られてきた。オスマン帝国の軍艦が1890年に和歌山県串本沖で沈没し、地元の漁民たちが献身的に救出や看護を行った、という史実だ。この話は美談として語られることが多いし、最近は日本の小学校の教科書にも載っているので、知っている方も少なくないだろう。
「自国のいい話」を語ることは愛国心を気持ちよくくすぐるだろうけれど、それはトルコ人が語るから「いい話」なのであって、ぼくは子どもたちにそんな自慢話をするような大人にはなってほしくないと思っている。その時代のトルコでは、ひとびとはどんな暮らしをしていたのだろうか。そこに想いをはせてほしいのだ。そこに関心をもった絵本作品は、ぼくが知るかぎりない。今回が初めてだ。
つまり、業界用語でいうと、「類書がない」。おそらく世界を探してもない。
実は、そのころ、物語の舞台となる、イスタンブルのまちは、今よりもっともっとうつくしかった。世界中の人から愛され、足繁く通う文化人も多かった。さまざまな国のひとびとが出遭い、交わり、滅びゆく古い文化のなかで、新しい文化の萌芽も生まれていった。トルコ人の多くも今となっては忘れている、その失われた世界は絵画でしか表現しえないもので、その絵を描けるのは、誰も関心を持たない頃から、中東・イスラム社会の国々を見つめ続けてきた小林豊さん以外にいないと、ぼくは確信していた。そして、実際に、物語の世界を広げる壮大な絵が仕上がったのだ——。
ところが、である。発売直前になって、どうやら中岡さんはしりごみしているらしい。
それもそのはずだ。
行動をみれば、明らかなのだ。タラブックスの制作でインド文化にどっぷりハマった中岡さんは、マハトマ・ガンジーの有名な言葉を借り「善きことはカタツムリの速度で動く」とうそぶきながら、2020年3月に出すはずだった本を、再起動させるまでに半年以上かけ(もちろんコロナの影響もある)、「12月のクリスマス商戦に出します!」と自ら宣言しながら、「余裕をもたせて1月末です!」とトーンダウンし、2月のいま、まだ出ていないのである。
ぼくは、本づくりの進行役である編集者としても10年のキャリアを持ち、大小さまざまな出版社と関わりを持つ。
三輪舎では、ふつうの出版社では、ありえないことが起きているのだ!
ゆえに、この絵本が、本当に3月に出るのか、おおいにいぶかしんでいるのだが、この類書なき企画が実現したことも、まさに、その「ありえないことが起きている」一貫なのだからしかたがないのかもしれない。
というわけで、知られざるトルコの魅力について、何回かにわたって、関連書も紹介しながらふれてみようと思う。それを通して、ぼくは読者のみなさんと、中岡さんにエールを送りたいのだ。
「中岡さん、待っているゲラ、予定から27日経ったけど、まだ届いてないよ!」と。
イスタンブルは、ひととひとが出逢うまちだ。コロナ禍のいま、出逢うことのよろこびが失われている。それでも、冬がすぎれば、かならず春がくるようにいつか禍の日々はすぎる。山の草木も、動物たちもみな、春を待つように、いま、ぼくたちは、いつか出逢う日をともに心待ちにしたいのだ。
では、トルコとの出逢いから話をひもといてみよう。
2021.2.5
末沢 寧史