Vol.04 かたつむりの速度

2021年3月19日

3月16日、ゲラが来た。予定から66日後。中岡さんが誰からゲラが来るのを待っていたかというと、もちろんこの絵本の装丁者の矢萩多聞さんである。

のっけから脱線して申し訳ない。

読者の皆さまは気づきようがないが、この連載は一ヶ月前の2月19日に3回目を書いたあと、約1ヵ月休載していた。気づきようがないのは、連載が開始されるまでにタイムラグが1月あったからだ。

この連載は、毎週金曜日に極めてスケジュール通りに送稿している。リアルタイムで本当に動いているスケジュールと連動していなければおもしろくないからだ。

だが、中岡さんは、原稿を送っても「あいやしばらく」などとメールを書いてよこすばかりで、ゲラ同様、連載の開始も遅れていった。タイムラグはどんどん広がるばかりだった。そこで、やむなく一時休載としたわけだが、結果は連載のペースが現実に追いついただけで、これを休載と言っていいのかどうかはもはやよくわからない。

『海峡のまちのハリル』の発売予定は3月上旬だ。しかし、予想通り3月上旬は何事も起きないまま過ぎた。「上旬」から一夜明けた3月11日。忘れもしない、かの最大手ネット書店でゲラが来ていないのに、「一時的に在庫切れ」となっているのを目撃してしまった日のことだ。

編集者の友人から突然、LINEに連絡が入った。

「今、藤原印刷で打ち合わせしてきたのだけど、ハリル(『海峡のまちのハリル』)が出校するみたいだよ! 施設内見学した時に、出校予定として壁に書いてあったよ」

なに、出校!? その友人は、この本のもう一人の編集者、鈴木麻紀子さん(以下、まきこさん)だ。まきこさんは、長野の松本に住むフリーの児童書編集者だ。大学の同級生で、母親が小林さんの絵画教室に通っていた偶然の縁もあったりして、はや20年の付き合いになる。

いつか絵本を書いてみたいなどと漠とした夢を語り、いつまでも就職せずにフラフラしていた若かりしころのぼくとは違い、しっかり者の彼女は大学をストレートに卒業すると老舗児童書版元の編集者となった。そして10年後、ぼくがようやく出版社の駆け出し編集者になったころには、ベストセラーを連発する凄腕編集者となっていた。彼女はその後版元を移り、昨年いよいよ独立したところだ。直近で携わっていたファンタジー小説の企画もなんとアニメ化されるそうで、活躍が目覚ましい。

そのセンスにあやかりたいものだが、どうにもこうにもベストセラーになる気配はないこの企画。それでも、10年ずっと応援してくれていて、折にふれて的確なアドバイスや励ましをもらってきた。いわば、企画の生み・育ての親の一人でもある。

その彼女が、たまたま別件で印刷会社を訪れたところ、『海峡のまちのハリル』の色校正(校了前の最終工程で実際に使う紙を使った校正)が近々出る予定に組み込まれていそうなことを目撃した、と言うのだ。だが、その時点で、ぼくの手元にはまだそもそもゲラが届いていない。中岡さんからは何も連絡がない。それなのに、印刷会社から色校正が出る? そんなことがあるのだろうか。 

手間をかけることで、傑作が生まれる

今回の絵本は、印刷会社の関与の度合いが高いのも特徴の一つとなっている。今や出版印刷は写真集や美術書を除けば、デザイナーや装丁家が入稿したままのデータ通りに出力され、そのままほぼ補正されずに印刷されることも増えている。1冊あたりの本の販売部数が全体として減ってきていることが背景にあり、やむをえないコストカットなのだろう。だが、日本の出版物の印刷品質の低下を出版社が加速させている側面は否めない、と当事者として常々感じていた。

だが、今回『海峡のまちのハリル』の印刷を担当する藤原印刷は違った。

藤原印刷は長野の松本に本社を置く印刷会社で、モットーは「心刷」。「藤原兄弟」こと、藤原隆充さんと章次さんが営業のフロントに立って、新しい印刷のあり方を日々模索している。余談だが、弟の章次さんとは以前、知人を介して会ったことがある。その頃は、「寄付印刷」という印刷するごとに一定金額が社会活動を行う団体に寄付される取り組みをはじめたところで、おもしろい印刷会社があるものだと思っていた。

さて、昨年10月のことだ。三輪舎では、以前から藤原印刷と仕事をしていて、今回の絵本も「印刷は藤原印刷で」、ということになった。そして、野次馬としてぼくも印刷・製本のオンラインミーティングに参加させてもらった。参加者は中岡さんと、装丁家の矢萩多聞さん。そして、藤原印刷からは営業担当の章次さんと、プリンティングディレクターの花岡秀明さん。「単色や、通常の4色とは違う印刷をしたい」という中岡さんや多聞さんの要望を受け、通常のCMYK(青、赤、黄、黒)ではない4色をかけ合わせることになった。「スミに銀を混ぜるとどうか」、「黄とオレンジも加えた4色がいい」などと、原画の風合いを踏まえた、とてもきめ細かな印刷のプロの提案が飛び交っていた。

とりわけ心強かったのが、プリンティングディレクターの花岡さんの存在だ。こうした原画の色ごとに特定のインク色をあてるような特殊な印刷を行うには、原画のどの部分にその特色をあてるかが重要となる。通常のCMYKの4色分解であればデザイナーが手元で調整を行うが、全特色となると職人芸の世界。インク色は、黒、銀、黄、オレンジが選ばれた。この「分版」という原画の色分け作業を、ベテランの職人である花岡さんは「自分がやったほうがいい」と言い、力強くこう続けた。

「この手間をかけることで、傑作が生まれると思っています。原画の鉛筆と墨で描かれた部分のグラデーションはすみ分けさせたい。鉛筆の部分はインクでインパクトを出したいですね」

そうして11月に実際にあがってきたテスト刷り(色を確認するための紙面見本)は圧巻の一言だった。奥行きが本物の絵のようだ。原画を描いた小林さんも、それをみて、「こういうことだよ。原画よりいいじゃないか」と喜んでいた。「印刷物と絵は別の表現物なんだから、印刷会社もこうやって作品づくりに関わってくれればいいんだよ」と。

この作品は、そういう意味では、実に多様な作り手の作家性をごった煮にしながら、集約していくものと言えるのかもしれない。分版と原画を並べた展示はいつかやってみたい。

当時は、「クリスマス商戦に向けて進めます!」と中岡さんが心強く宣言していたころ。色校もすぐに進むと思われたが、蓋をあけてみれば3月上旬を過ぎてもゲラはまだ来ていなかった。著者が知らないあいだに出版社が原稿を校了していることも、この業界ではまれにあるらしい。

まきこさんから色校が出るかもしれないと聞いて、慌てて中岡さんに問い合わせると、「まだですよ〜」とおだやかな返事がある。藤原印刷はスタンバイ万全なのかもしれないが、色校はまだだった。ただ、ゲラはほぼ準備ができたと中岡さんは言う。

「善きことはカタツムリの速度で動く」

その1週間ほど前。

「いやあ、多聞さんからなかなか届かなくて。体調を崩していたようです。最後は間に合わせる人ですが」と、中岡さんは中学生のズル休みの理由のようなことを言っていた。だが、一方の多聞さんに年末時点で話を聞くと、「中岡さんから連絡が来ないんだよね。クリスマス商戦と言ってたけど、間に合うのかな? ぼくも仕事が早いほうじゃないし、中岡さんも締め切りをきらない。進まないんだよね」と語っていたことをぼくは知っている。

この二人の言葉を額面通りに受け取ってはいけない。マハトマ・ガンディーの「善きことはカタツムリの速度で動く」という言葉を中岡さんがインドに感化されてから使うようになったことは最初に紹介した。だが、この言葉を自著などを通じて紹介してきたのが、ほかでもないインド通として知られる多聞さんなのだ。

つまり、これだけスケジュールが遅れた真相はこういうことだ。実は、このふたりこそが「カタツムリ」の化身であり、お互いに締め切りをのばしあっていたのだ!!

たしかに、出てきたゲラはさすがで、申し分なくすばらしい。作品世界に自然と入りこめるような、紙面空間が築き上げられていた。

だが、この連載のテーマはあくまでスケジュールだ。

最近、思うことがある。いいデザイナーというのは、締め切りをあいまいにしたり、幅を持たせたりして設定すると、最終日の深夜などに送ってくることが多い。「これ、なんでなんですか?」とある時、腕の立つデザイナーの人に聞いたことがあるのだが、「時間が許すかぎり粘りたい」という。この発想は作り手として正しいことだと思う。

結論から言うと、(ぼくが言うことでもないが、)デザイナーに仕事を依頼するときは、締め切りをまずはっきり決めなければならない。しかも、幅を持たせず、「本当の締め切り」として伝える必要がある。

実際、多聞さんには、ぼくが手弁当でやっている書籍展示「本のヌード展(カバーを剥がすとすごい本を集めた展示)」にも協力してもらっていて、展示のポスターや冊子の表紙のデザインを手伝ってもらったことがある。そのときも締め切り通りとはいかなくてヤキモキしたが、「本当の締め切り」には間に合っている。その締め切りというものを情け容赦なく切るのが、ほかならぬ編集者の役割である(なんてあたりまえのことだ!)。ゆえに、編集者はあの手、この手で催促の技術を磨いていくのだ。

とすると、この本の編集者って、いったいだ……。

そんな疑問が湧いてきたところで——ああ、今回はすでにこんなに長くなってしまった。次週に青春の挫折の話を回そう。

ちなみに、今回届いたゲラは、まだ入っていない要素があり、事実上の初校ゲラだった。ぼくが本当に待っているゲラは、もう色校なのだよ、と思いながら、“初校”ゲラを3月17日に戻した。

つぎのゲラはいつだ?

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